広報文化

平成26年10月23日

日愛外交関係樹立50周年記念 (潮田哲,淑子ご夫妻に聞く) 「聞き語り日愛半世紀」 第2回:「太平洋戦争と2人のアイリッシュ」

前回のグレー神父の話に早速反響があり,63年にスライゴーであったイェーツ学会のサマースクールに一緒に行った方とか,その頃日本からいらした先生とか,いろいろな方々が連絡してきて下さり,驚いています。今回は太平洋戦争と日本とアイルランドのつながり,そしてシンガポール陥落の際の英国軍司令官だったパーシバル将軍(Arthur Ernest Percival)と,その後日談的エピソードの話をしましょう。

【トム・マリンズ(Tom Mullins)】

国交樹立後,暫くの間オランダから兼任だった大使館が1964年にダブリンに常駐になってから,最初の天皇誕生日レセプションで,トム・マリンズという人に会いました。私の方に歩いてきて,彼は言いました。

「俺は1920年代にコークで英国軍によるIRA(アイルランド共和国軍。現在のいわゆる「IRA暫定派」とは別)の弾圧を指揮していたパーシバル(注:当時はエセックス連隊第一大隊の中隊長,後に情報将校)を何度も暗殺しようとしたが,成功しなかった。ところが20年後にシンガポール陥落で山下奉文中将が彼を捕まえてくれた。あんまり嬉しいので(戦時中日本のダブリン領事として駐在していた)別府氏(後に駐ラオス大使)を囲んでダブリン中のコメを買い集めてお祝いをしたんだ」

20年代のアイルランドには,「Black and Tans」や「Auxiliaries」など,悪名高い英国の治安警察隊もいましたが,パーシバルは当時,それ以上の冷酷さでアイリッシュの間で恐れられ「最も凶暴な反アイルランド主義者」と評されていたと言われています。英国による弾圧のリーダーであったパーシバルの首には懸賞金がかけられ,彼を暗殺する試みは何度もされたようですが,(1920年11月21日の)クロークパーク事件の直前に,マリンズ氏達はコークで何度もパーシバルの命を狙ったそうですが,彼は今で言う防弾チョッキのようなものを着ていて,いずれも失敗に終わったようです。

そのパーシバルを1942年にシンガポールで降伏させた日本のひいきになるのも納得できます。山下中将とパーシバル中将と言うと,山下中将が(降伏について)机を叩いて「イエスかノーか!」と迫ったという話が有名ですが,この話はどうやら脚色されているようです。パーシバル宛に「シンガポールを絶対に死守せよ」との電文を送ったチャーチル首相は,シンガポールが陥落したことを「英国史における最悪の惨事」と呼んでいます。その後,日本の終戦時に戦艦ミズーリ上での降伏文書調印の際に,パーシバルは連合国代表の一人としてマッカーサーの後ろに立っていますし,更にフィリピンで山下大将が率いる日本軍降伏する時に,パーシバルはそれにも立ち会っています。

マリンズ氏はコークに7つあったIRAのグループの1つのリーダー的存在だったそうです。上院議員で,議長も務めたマリンズ氏とは,その後レセプション等で何度か顔を合わせましたが,その度に人をかき分けて私の所に来て同じパーシバルの話をしました。日本がパーシバルを降伏させたのがそのぐらい嬉しかったのかもしれません。

第二次大戦中,中立国のアイルランドでは開戦の少し前から日本の領事が駐在していたのですが,アイルランドにとって仇敵であったイギリスの敵国である日本は自分たちの味方と思ったのか,日本人に親しくしたり,助けたりするアイリッシュがいたようで,そのうちの一人がマリンズ氏ということなのでしょう。

【ジェームズ・マッキュー(James McHugh)】

シンガポール陥落に関連して,もう一人の日本びいきのアイリッシュがいます。ジェームズ・マッキューというシビル・エンジニアで,彼は戦前シンガポールにいて,シンガポール陥落直前にシンガポールを脱出して先に逃げた家族の待つオーストラリアに逃れようとした時,日本軍のゼロ戦の機銃掃射を受け,九死に一生を得ています。機銃掃射を受けると言うのは本当に恐ろしい体験のようですが,信じられないことにそれだけの思いをしたにもかかわらず,60年代にオーストラリアからアイルランドに戻るとすぐに,愛日協会(68年設立)の発起人になっていますし,チェスター・ビーティー・ライブラリーの理事にもなっています。

戦後数年間日本に住んでいた彼は日本の美術品がとても好きで,ブラックロックの邸宅に,まるで美術館のように日本の焼き物や絵画などの美術品を飾っていました。日本に関するものは何でも興味をもって,日本語も勉強していました。1970年に日本から三村ハープ・アンサンブルの若いお嬢さん達がアイルランド公演に来た時に,時間がなくて地方公演の宣伝が十分出来ず,チケットがなかなか売れなかった時には,自分のポケットマネーでチケットを大量に買ってくれ,修道院のシスターや子供達を招待してくれたりと,あらゆる協力を惜しまない人でした。彼のボスのジョン・ガルビン氏は実業家で日本の鉄鋼会社とも取引があり,マッキューさんと日本とのつながりができたのは,その関係だったのでしょう。

因みに,マリンズ氏や戦時中の日本領事館の話は,司馬遼太郎さんの「街道を行く」の「愛蘭土紀行II」にも出てきます。日本の領事たちは中立国であるスイスにある大使館を経由して本国からの支援を受けていたようですが,それについて,ブレンダ・ノーランという,外務次官補で後に駐スイス大使になったアイルランド人がいて,彼にパーシバルの話をしたところ,後になって何とスイスのアイルランド大使館に日本政府が中立国で活動している自国の外交官たちに送金をしていた記録が残っていたと教えてくれました。これらの外交記録はアイリッシュで書かれているそうなので,どなたかアイリッシュが分かる日本の専門家が研究すると面白い資料なのかもしれません。

【戦時中の日本領事館】

87年に司馬遼太郎さんがアイルランドに来られた時の話は今度しようと思いますが,戦時中の日本領事館(ママ)は,1939年,英国リバプールの領事になった当時35歳の別府さんが翌年ダブリンに一軒家を借りて開設します。そのいきさつについて,司馬さんは「どういう命令が別府さんをダブリンにゆかせたのかは知らない。あるいはアイルランド自由国が国家としての体面をととのえるため,日本政府に『日本もダブリンに在外公館を置いてくれるとありがたいのだが』と打診したのかとも思われる」と書いています。ダブリン領事館の仕事として,日本が英国と断交した場合,在留邦人を中立国のアイルランドに避難させるということも入っていたようですが,実際はそうならなかったそうです。勿論,英国の動きはアイルランドから見るとよくわかったでしょうから,現地の情報収集という仕事もあったでしょう。開戦になって,ロンドンの大使館は閉鎖したため,彼らはダブリンで「籠城」することになったのです。戦時中,日本に帰らないかという打診もあったらしいのですが,帰ろうにも船がなかったようです。敗戦とともにダブリンの領事館は閉めますが,引き揚げはスムーズにいかず,帰国できたのは48年になってからとのことです。

領事館は別府さんと副領事の市橋さんの2人がいらしたようですが,その市橋さんについて,面白いエピソードが残っています。日本からの送金も途絶えがちだった当時,これも,前出の敵の敵は味方という日本びいきのせいかもしれません。市橋さんは親切なアイルランド人の計らいで小さな土地と農家の一部を借りることができたそうです。

1989年,市橋さんのお嬢さんが当地を訪れ,父親が大戦中に住んだ家を探したいと言うので,一緒にキルデア州に行ったときの事です。手帳に書かれたカタカナ書きの地名を地図で探すのは容易ではありませんでした。ネースからの田舎道を更に入って,小さな街のタバコ屋や村外れの雑貨屋などで何度か尋ねてみました。その度に「右に行って」「左に曲がって」と様々な答えが返ってきて,居合わせた買い物客までが「確かこの辺りだ」などと助けてくれたのですが,言われた通りに車を走らせてみても,「昔ハーブを作って市場に出していたMさんの家」というだけでは,なかなか見つけることができませんでした。1時間あまり尋ね回った後で,半ばあきらめ,現場検証的に写真を撮り始めました。

すると,向こうから小さな男の子を連れた男の人がゆっくり歩いてきて「こんにちは。すばらしい天気ですね」というアイルランド的な挨拶をしました。そして市橋嬢が一縷の望みをかけて聞いた質問に,彼の表情は一瞬こわばりました。「信じられない!」と言いながら彼がしてくれた話は,正に信じられない話でした。

彼の父親は鉄道員だったらしいのですが,その家に自転車を預けては,よく列車でダブリンにでかける青年がいて,彼は子供心にその自転車で颯爽と田舎道を走る姿にあこがれていたそうです。そして,その憧れの青年こそが市橋さんだったのです。彼が当時のことを懐かしそうに話しながら,ボンネットに広げた地図で細かく教えてくれたので目的地に行ってみました。市橋さんが耕していた畑は立派な農場になり,住まいもモダンな2階建てに改築されてはいましたが,当時の部屋らしい面影を残した部分もありました。突然の訪問者に驚きながら,新しい主は親切に家の中を案内してくれ,昔ハーブを作っていたというMさんの移転先をメモに書いてくれました。それを市橋さんへのお土産にして,いつまでも手を振りながらその地を去りましたが,私たちの心はとてもさわやかな気持ちに満ちていました。 

(つづく)

(大使館注:ダブリンで領事活動を行った別府節彌氏(後の駐ラオス大使)は,外務省の人事記録上は以下のような複雑な発令を受けている。

昭和14年 1月20日 任領事(リバプール在勤)を命ず
昭和15年 1月29日 任公使館二等書記官(スイス在勤,ノルウェー及びデンマーク兼勤)を命ず
昭和15年 6月25日 任大使館二等書記官兼領事(英国在勤及び「リバプール」在勤(兼官))を命ず
昭和15年12月28日 任大使館一等書記官兼領事(英国在勤)を命ず
昭和17年 8月 4日 任公使館一等書記官(スイス在勤)及び「ダブリン」出張駐在を命ず
昭和18年 5月18日 任総領事(「ダブリン」在勤)を命ず
昭和15年と17年の間に何が起こったのか,この間の事情は詳らかではないが,在外公館の開設に先立って出張し,事務所用建物の調査を行ったり,あるいは出張駐在の形で執務を開始することはよく行われることであり,出張中の昭和16年12月に開戦となって英国に戻ることができなくなったため,そのまま出張駐在となり,その後総領事館開設の運びとなったといったことが考えられる。)