大使レター「歴史を再度生きる―ポーチュムナにて」(5月号)

令和8年5月29日
ゴールウェイ県ポルチュムナ町のアイルランド・ワークハウス・センターでの国家飢饉追悼式典において 基調演説を行うミホル・マーティン首相(令和8年5月撮影)
日本の茶摘み
拝啓
5月末となり、アイルランドに夏の兆しが感じられる日が到来したようです。読者の皆様はいかがお過ごしでしょうか。アイルランドでは、5月4日のメイ・デーが暦の上での夏の到来の日であり、日本では今年は5月2日が八十八夜。アイルランド人の読者の中にも、日本の茶摘みの歌をご存じの方もいらっしゃるのではないでしょうか?

「夏も近づく八十八夜
野にも山にも若葉が茂る
あれに見えるは茶摘みじゃないか
あかねだすきに菅(すげ)の笠」

さて、今月16日、筆者は19世紀半ばにアイルランドを襲った大飢饉を追悼する式典に招かれ、アイルランド西部のゴールウェイ県ポーチュムナ町を訪ねました。ミホル・マーティン首相は、式辞の冒頭で、「我々の島の記録に残る歴史上、大飢饉ほど悲惨な出来事はありません。その破壊的なすさまじさの結果もたらされた死者、喪失の規模は、ほとんど理解することすら不可能です。最悪の事態が終了した後、大飢饉前の状況は、全て消え去りました。」と述べました。そして、大飢饉の結果、多くの国民が国外に移り、また、2度と同じような惨禍を繰り返さないとの強い決意が、アイルランドの国民性となったことなどを発言した上で、「この式典は、国家の最も重要な記念式典の一つです。特定の個人や団体に焦点を当てるのではなく、社会全体と無名の犠牲者に想いをいたす式典です。」とその意義について述べました。

会場には、文化・通信・スポーツ大臣、運輸担当国務大臣、ゴールウェイ県議長、地元関係者、外交団など多くの参加者が集まり、1846-1851年の大飢饉の犠牲者に哀悼の念を表しました。曇り空の下で開始された式典は、首相の式辞の途中から雨となり、気温もぐっと下がりました。筆者も少し震えながらも、大飢饉に想いを寄せ、また、なぜ現在のアイルランドが国際的な食料不足、飢饉の問題に真剣に取り組み、弱者を助けようとの精神が強いのか、以前よりも良く理解し始めたように感じます。

後日、とあるアイルランドの友人に、ポーチュムナでの体験について話しました。すると彼は、「アイルランド人のDNAには今も、大飢饉の経験が深く刻まれています。信じられないことかもしれませんが、例えば、私は毎回食事をとる時に、「もしかしたら、これが最後の食事になるかもしれない。大切に食べなければ。」と心の中で思うのだと答えてくれました。また、とあるアイルランド在住の欧州の友人からは、「アイルランドの人々は、土地に対する思いがとても強い。その一つの原因は、大飢饉を経験したことにあるように思う。」との指摘を聞いたことがあります。

振り返って、19世紀の日本での大飢饉といえば、江戸時代の天保の大飢饉(1833-39年頃)がありました。大凶作と疫病のために、当時の人口推計によれば、100万人以上の人口減があったとされます。これまで、筆者は、「なぜ日本人は、食事は残さずに食べることが礼儀正しいと考えるか」、また、「なぜ官民ともに食品ロス対策に真剣に取り組んでいるのか」、さらには、「なぜ日本は食料不足に苦しむ海外の国々に技術協力や食料支援を熱心に行ってきたのか」、日頃それほど意識したことはありませんでした。しかし、今回の式典に参加し、マーティン首相の演説を聞き、上記の友人の言葉を聞き、そうしたことも頭をよぎります。

日本とアイルランド。それぞれの歴史を重ね、最近10年間では、アイルランドから日本への農産品の輸出は倍増しています。1年を通じて青々とした牧草で育てられるアイルランドの牛肉、日本にはアイルランド産牛タンを提供するチェーン店もあるとお聞きします。長い歴史をもつアイリッシュ・ウィスキーは、日本でも広く流通しています。また、日本の緑茶は、アイルランドでも健康に良いからということだけでなく、抹茶ラテなどさまざまな形で若者にも浸透しているようです。アイルランドでの和食の人気も相当高いです。そして、両国とも、持続可能な農業、すなわち、気候変動問題はじめいかに地球に優しい農業を進めていくかについても、それぞれに戦略を策定し着実に実施中です。

マーティン首相は、国家飢饉追悼式典での演説の中で、米国の詩人マヤ・アンジェラ氏の作品から以下を引用しました。「歴史は、その激しい痛みにもかかわらず、生き続ける、そして勇気をもって直面すれば、再度生きる必要はなくなる。」

ご縁あってアイルランドで今を生きる筆者も、この精神をもって過去を忘れず、そして前を向いて、日々を過ごせればと思います。そして、国際社会が直面するさまざまな課題にも思いをいたし、アイルランドの友人たちと、両国の友好関係を深めていければ、有り難いことだと思います。

それでは、来月またアイルランドのどこかで、またはこのページでお会いできるまで、ご自愛のほどお祈り申し上げます。

敬具
駐アイルランド日本大使
宮川 学
ゴールウェイ県ポルチュムナ町のアイルランド・ワークハウス・センターにおける国家飢饉追悼式典(令和8年5月撮影)
五月人形(令和8年5月撮影)
在アイルランド日本国大使館からの風景(令和8年5月撮影)
ゴールウェイ県ポルチュムナ町のアイルランド・ワークハウス・センターでの国家飢饉追悼式典にて「子どもたちの残酷な場所」(ブレンダン・グラハム)を歌うローシン・マニョンさん(令和8年5月撮影)
抹茶アイス
共和党党大会終了後のレセプションで宮川学駐アイルランド日本大使と懇談するマーティン首相(令和8年5月石本暁広一等書記官撮影)